ヨシュア記9:1~27 遠い国からの使者

 ヨシュア記9章のキーワードは何でしょう。
 
第1のキーワードは、「主の指示を仰がなかった」(14節)。自分の判断や論理や経験や緊急性を優先させると、あとで、後悔します。
 第2は、「誓い」。ヨシュアたちは、どんな誓いであっても神の前の誓いを誠実に守りました。詩篇15:4の「損になっても、立てた誓いは変えない。」という言葉を思い出します。
第3は、「しもべ」。8、9、11、24節に使われています。「しもべ」という言葉を手がかりに、私たちとギブオン人との共通点を探していきましょう。


1、ギブオン人の視点で見る

 9章は、ギブオン人がヨシュアたちをだまして盟約を結んだという内容です。

さて、ヨルダン川のこちら側の山地、低地、およびレバノンの前の大海の全沿岸のヘテ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の王たちはみな、これを聞き、相集まり、一つになってヨシュアおよびイスラエルと戦おうとした。(1~2節)

一つの町単位ではイスラエルに立ち向かうことができないと判断した町の長老たちが、同盟を組むことを提案しました。10:2によると、ギブオンの町は、有力な町で、町の人々は勇士だったので、同盟の誘いが来たはずです。が、仲間に加わりませんでした。
むしろ、イスラエルの奴隷になる道を選びました。このことがカナン人に知れたなら、裏切り者として同盟軍に血祭りにされたことでしょう。また、偽装工作が発覚すれば、使者はその場で殺され、ギブオンの町は聖絶されたことでしょう。


2、負けるが、勝ち

中国の古典、「孫子の兵法」は、戦争についての哲学と実際が書かれた含蓄のある書物です。その中に、「戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」という言葉があります。戦わないで勝つことが、最も良い戦いだと述べています。
南北戦争の有名な激戦地ゲティスバーグの戦いでは、丘という有利な地形に陣取る北軍に対し、南軍は無謀な攻撃を何度も繰り返し多くの犠牲者を出しました。「高い陵にいる敵を攻めてはならない」との孫子の兵法から言えば、ありえない作戦です。
本当の勝利とは何か。どうしても必要なら戦う。そうでなければ、戦うことを選ばない。リーダーには、俯瞰できる見識が求められるのです。


イスラエルと戦っても勝ち目はない。
同盟を組んでも負ける。必ず聖絶される。
だが、何としても生き残りたい。家族も、親戚も、友人も、子供たちも守りたい。

結論は、イスラエルと盟約を結び、しもべ、つまり奴隷となり、生き残ることでした。
負けるが勝ち。そう、悟ったのです。

 こうして、彼らはギルガルの陣営のヨシュアのところに来て、彼とイスラエルの人々に言った。「私たちは遠い国からまいりました。ですから、今、私たちと盟約を結んでください。」(6節)


3、使者たちの説明

 イスラエルの人々は、そのヒビ人たちに言った。「たぶんあなたがたは私たちの中に住んでいるのだろう。どうして私たちがあなたがたと盟約を結ぶことができようか。」(7節)

遠くから来た使者たちは怪しい、とヨシュアたちは睨みました。国名も、都市の名も言わない。カナン人が偽装しているに違いないと早くも見破りました。でも、ギブオンの使者は、追い詰められても、落ち着き払って答えました。「私たちはあなたのしもべです」(8節)


 彼らは言った。「しもべどもは、あなたの神、主の名を聞いて、非常に遠い国からまいりました。私たちは主のうわさ、および主がエジプトで行なわれたすべての事、主がヨルダン川の向こう側のエモリ人のふたりの王、ヘシュボンの王シホン、およびアシュタロテにいたバシャンの王オグになさったすべての事を聞いたからです。(9~10節)

これらの言葉は、ラハブが斥候たちに話した内容(ヨシュア2:9~10)と酷似しています。イスラエル人から見れば、ギブオン人は異教徒であり、異国人だが、イスラエルの神はまことの神であり、力があり、イスラエルの民にカナンの地を与えることのできる神だと理解していました。

 「彼を知り己を知らば、百戦殆うからず」と孫子の兵法にありますが、ギブオン人は、イスラエルがどんな民族かを深く知り、その神を認め、主と共に歩む道を選びました。


4、カナンの女との類似性

カナンの女が主イエスのもとに来て、悪霊につかれた娘を助けてほしいと願う場面が福音書に記録されています。(マタイ15:21~28)このカナン人とギブオンの人は似ています。
主イエスは、ユダヤ人の救いのために来たので「犬」(異邦人)に与えるパンはないと、厳しく言いました。カナン人の女は、自分は確かに「犬」に等しいと認め、それでも食卓から落ちたパンはいただきますと切り返し、その信仰が大いに評価されました。

このカナンの女と、ギブオン人は似ています。何としてでも助けてほしい、たとえ「犬」と呼ばれようと、「しもべ」になろうとも構わない。

カナンの女と、ギブオンの人々と、私たちは似ています。
私もあなたも、そのままでは、滅びるしかない存在です。罪の解決を持たずに地獄に落ちる定めです。自分で自分を救えないのです。
だから、どんな手段を取っても、救われたい、助かりたいと願うのです。私たちも、滅びが間近に迫って初めて真剣に救いを求めます。どんな方法でも助かりたいと思うものです。

ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。(エペソ2:11~13)

私たちも、神から遠く離れた存在でした。いわば遠い国から来た者です。イエス・キリストのゆえに、異国人の私たちも神の民の一員にさせてもらいました。
 ギブオンの人々の命は保証されましたが、「たきぎを割る者、水を汲む者」という奴隷の地位にされました。(21節)

ご覧ください。私たちは今、あなたの手の中にあります。あなたのお気に召すように、お目にかなうように私たちをお扱いください。」(25節)

 ギブオン人は、生涯、神と神の民イスラエルに仕えると心に決めました。

こうしてヨシュアは、その日、彼らを会衆のため、また主の祭壇のため、主が選ばれた場所で、たきぎを割る者、水を汲む者とした。今日もそうである。(27節)

ギブオン人は、イスラエルのために薪を集めたり、水を汲んだりという奴隷の労働(申命記29:11)をしました。それだけでなく、「主の祭壇」のためにも働くことになりました。単なる詐欺師、嘘つきなら、ヨシュアはこうした大切な役割を与えることはなかったでしょう。

クリント・イーストウッドの映画「グラン・トリノ」という映画は、なかなか味のある映画です。若い頃は、復讐ものの映画で殺戮を繰り返したイーストウッドですが、この映画では復讐の形が違います。負けることによって勝つという復讐です。


 あなたの直面している戦いは、争う価値がありますか。

 負けるが勝ち。主イエスの生き方も、死んで生きる道でした。
 自分を捨てる、自分の十字架を負う、そして、主イエスについていく。そういう道もあるのです。


→あなたの番です。
□主の指示を仰ぎましょう
□約束は守りましょう
□主イエスと共に、負けて、勝ちましょう。